北の富士逝く - 元横綱北の富士さんが死去、82歳
本ドキュメントでは、元横綱北の富士(竹沢勝昭)氏の生涯と功績について振り返ります。彼は82歳で逝去し、相撲界に多大な影響を与えた人物でした。解説者としての鋭い論評や、数々の名横綱を育てた功績は、今後も語り継がれることでしょう。
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角界のご意見番だった元横綱北の富士氏が逝った。NHK相撲解説者の竹沢勝昭氏が亡くなっていたことが20日、分かった。82歳だった。関係者によると秋場所後に体調を崩して、入院していた。12月に都内の八角部屋でお別れ会が開かれる予定。名門出羽ノ海一門を破門されたが、70年初場所後に52代横綱に昇進して通算10度優勝。引退後は千代の富士、北勝海(現八角理事長)の両横綱らを育てた。協会幹部として期待されたが早期退職で解説者に転身し、歯に衣(きぬ)着せぬ論評で人気があった。現役時代も派手な行動で再三話題となり、逸話に事欠かない存在がまた一人幕を下ろした。
北の富士氏は、秋場所後に体調を崩して入院していた。この日、82歳でなくなっていたことが分かった。98年春から長年にわたってNHK解説者として活躍した。アナウンサーの問い掛けにたまに上の空で、年を感じさせたこともあったが、力士、土俵には厳しい論評だった。相方とも言える舞の海氏とは意見や予想の食い違いがしばしば。一流横綱と言える10度優勝の威厳で一刀両断し、角界ご意見番としての存在感は絶大だった。
24年3月には82歳になっていた。歴代横綱の最長寿は明治時代中期の初代梅ケ谷で83歳4カ月。現代では元横綱初代若乃花が10年に82歳5カ月、栃ノ海が21年に82歳10カ月で亡くなった。北の富士氏は「若乃花さんを超えて最長寿横綱に」と話していた。82歳7カ月で、その願いは届かなかった。
野球の名門北海高に勧誘されるなど運動神経抜群だった。ただ細身で新弟子検査は1度不合格となり、幕下も当時の解雇制度ぎりぎり昇進と苦労した。師匠が死去によって代わり、近代的部屋運営に転換して体も大きくなり、稽古にも励んで順調に出世。直前3場所28勝ながらも、予想外の大関昇進を果たした。
スカウトされた横綱千代の山の九重親方が、独立を申し出ると一緒に破門された。67年初場所は九重部屋として再出発して春場所初優勝。69年九州場所優勝も銀座通いなど品行を問題視で横綱昇進諮問は却下された。70年初場所に連覇で盟友玉の海と同時昇進した。
人気者プリンスの貴ノ花とは好勝負を演じた。物言い続きの因縁の勝負では日本中の敵役になった。北玉時代を期待されたが、玉の海が急逝してショックで低迷。休場中にハワイでのサーフィンで厳重注意を受けたことも。74年名古屋場所で連敗するとあっさり引退した。
74年9月に井筒部屋として独立し、3年後に師匠が死去し、合併する形で九重部屋を継承した。弟弟子だった千代の富士をウルフと命名し、速攻相撲に変身させて横綱まで育てた。北勝海と2横綱で10連覇を含む弟子の39度優勝は当時最多だった。
師匠は50歳までを有言実行し、92年には千代の富士に部屋を譲った。86年からは理事に就任して審判部長、新設広報部長などを歴任。理事長候補とも言われたが、98年に高砂一門理事候補から外れるとあっさりと退職。その後は解説者として、土俵ににらみを利かせていた。
現役時はプレーボーイ横綱とも言われ、引退相撲では初めてタキシードを着て歌った。後年はしばしば着物姿で解説席に座った。人気横綱だった粋な元親方。人生を満喫して旅立った。
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北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき)プロフィール
本名: 竹沢勝昭
生年月日: 1942年(昭17)3月28日
出身地: 北海道美幌町
初土俵: 1957年初場所(出羽海部屋)
横綱昇進: 1970年初場所(52代横綱)
優勝回数: 10回
三賞: 6回
引退: 1974年名古屋場所
その後: 井筒部屋として独立、九重部屋を継承し千代の富士、北勝海を育成。